代表挨拶

当サイトをご覧いただきありがとうございます。代表の安部雄紀浩(あべ ゆきひろ)です。私の人となりを知って頂く為に、幼少期から現在までの歩みをエピソードを交えてお話したいと思います。

■生立ちから小学校時代【プロミネンス(紅炎)の原点】

私は、1971年2月24日、大阪府寝屋川市に生まれました。2年間住んでおりましたが、その後は、奈良県天理市に移っており、幼少時代の記憶も天理でのものしか記憶に無い状況です。私の幼少期を語る中で欠かせないものが2つあります。1つ目は、アントニオ猪木との出会いです。小学校1年生の頃からプロレスに興味を持ち始め、その中でもとりわけアントニオ猪木に魅せられておりました。猪木さんの座右の銘に『私のロマン』というものがあります。『利害を超越して、誰もやらない事、誰もできない事、そして誰もやろうとしない事を夢としてそれに挑戦する!それが私のロマンである』と・・・。この言葉は、今でも私の心に刺さっております。因みに猪木さんの引退試合が1998年東京ドームで行われましたが、当然、現場観戦しました。そして2つ目は、小学校6年生の時に国立中学の受験を目指す為に、学習塾に通い始め、そこでの先生との出会いが、その後の私の人生を変えたと言っても過言ではありません。一番心に残っている言葉には、以下のものがあります。『勉強とは何だ?』『それは、できるまでヤルこと!それだけだよ!』でした。先生は、生徒が『分かる』ようになるよう指導をし、その後、『分かる』から『できる』へ昇華させるのは己の努力によるものだという事です。そして、1回でできるようになる人もいれば、10回かかる人もいる。10回かかる人は、その10回をやり切れば良いのだという事を教わりました。中学受験には失敗しましたが、この挑戦をした事により、勉強の成績は上がったことのみならず、様々な事に自信を持てるようになり、学級委員や児童会の役員選挙にも積極的に立候補をし、当選するようになりました。

■恩師そして親友との出会い【人脈はかけがえのない財産である】

中学校での3年間は、まず恩師である担任の先生が、1年から3年までずっと一緒でした。また今でも親友として付き合っている友とは3年連続で同じクラスでした。中学校での3年間は、学級委員である室長か、文化祭の運営に携わる中央委員と校則違反の取締を行う生活委員の兼務、このいずれかのみに携わりました。両方ともクラス内若しくは、生徒会の委員における重要なポジションになります。生徒会役員選挙にも出て欲しいと周囲から推薦はありましたが、それはクラブ活動の時間が制約されてしまうと考えて辞退しました。しかしながら、私のクラスから立候補をした人間の応援演説は買って出ました。幸いにして、毎回当選のサポートをする事ができました。クラブ活動では卓球部に入部しました。入部までに素養はありませんでしたが、自分の親友と一緒に・・・と軽い気持ちでのスタートでした。入部してからは、素振り、柔軟体操、ランニングが数か月続き、何十人かいた新入部員数も9人まで減ってましたが、私は、最初は球拾いや素振りは当たり前だと思って入部していたので辛いと思った事はありませんでした。卓球バカと部活の顧問に言われるくらい土日も練習していた記憶があります。中学校3年生の最後の市の大会では、優勝が常連である中学校を倒して我が校が団体優勝できたのが一番の思い出です。私は2016年に東京で結婚式及び披露宴を行いましたが、恩師の先生及び親友にも勿論、ご列席頂きまして、親友にはスピーチをお願いしました。クラス会や同窓会も過去に2度開催しましたが、発起人を務めました。

■第一志望に縁のなかった高校及び大学受験【自らの弱さを露呈した瞬間】

高校は、帰国子女が3/2を占めるインターナショナルの某大学の付属校を専願で受験しましたが、失敗に終わりました。この時の正直な気持ちは、先述の中学受験とは比べ物にならないくらいの敗北感を感じた記憶があります。どうしても行きたかったので、同校のパンフレットをベッドに持ち込んで毎晩読み返して、その学校に恋をするくらいの強い憧れを持って挑戦しましたが、不合格でした。その後、別の高校へ入学をして、大学受験を目指すのですが、正直私のやる気スイッチは、一旦切れてしまい燃え尽き症候群のような感じでした。大学受験では、高校受験の仮を返すべく、その某大学を受験するも失敗、現役受験は全滅、1浪受験は、補欠合格1校を除き全滅という惨敗でした。そして2浪目は、親に土下座をして、『もう1年、自分自身が、本当にダメ人間になってしまったのか再確認する為に挑戦させて欲しい』と願い出て最後の受験に挑戦しました。結果、第一志望には届きませんでしたが、第二志望校へ合格する事ができました。

■大学中退そして社会人へ【急がばまわれ】

2浪して入った大学でしたが、訳があって中退する事を決意しました。しかしながら、貿易に関する仕事、とりわけ国際的な仕事に就きたいと考えていましたので、学歴を補うものとして国家資格は武器にならないかと考えました。その時に出会ったにが、通関士資格になります。受験を目指した1994年は、関空開港の年であり、関空で航空貨物業界の仕事に就きたいと考えるようになりました。試験には運よく1発合格する事ができました。しかしながら、関空における通関士の求人内容としては、やはり実務経験を有する通関士であり、この時点では、関空で仕事をする事は果たせずにいました。翌年1995年は、阪神大震災のあった年で、神戸港が壊滅状態となり、大阪港での取扱量が激増しておりました。猫の手も借りたいというような状況下、実務経験を有していない通関士の有資格者であっても採用したいと考える企業もありました。関空での仕事をする為にも実務経験を積まなければならないと考え、大阪通関業会さんのご縁もあって私は、株式会社大運の輸入通関課に入社しました。当時の課長さんには、本当にお世話になりました。この時、輸入通関実務のイロハを私に叩き込んで頂けて無かったとするなら、その後の人生が全く変わってしまっていたと思います。本当に感謝しております。業務時間内の仕事を終えた後、2時間から3時間程度、時間を作って頂いて実務をご教示頂きました。その甲斐があり、また人の作成した書類をコピーして持ち帰って中身を精査し、不明点は担当者へヒアリングする事も並行して行った結果、輸入は一人前になるのに5年かかると言われていたのですが、2年で、関空で仕事ができるチャンスを得る事ができるまでになりました。

■業界全体と1つの会社と考え、積極的に転社【通関士から物流マンへ】

1997年JTB航空貨物へ入社。やっとスタートラインに立てる事ができました。海上貨物と航空貨物では、同じ通関でもスピード感が違います。航空の方がより速いです。また通関士であっても通関のみならず、トラックの手配も含めてカスタマーサービスを兼務しているのが、一番の違いでした。そのJTB航空貨物では、3人で通関チームをまわしておりました。月間の取扱件数が一番多い時で、860件ほどあったと記憶しております。海上貨物では、1人が100件/月を捌けるようにと言われてましたが、およそ2.8倍の件数です。毎日、お昼は食べれず、税関が閉庁する17時過ぎに3人でランチを食べていた思い出があります。大運での2年そしてJTB航空貨物での3年の合計5年に渡って通関実務に携わり、その間、アパレル、靴、カバン等の雑貨、食品、携帯電話の基地局と様々な貨物を取扱う事ができました。私の中の次なる目標として、国際物流の中における通関以外の部分で知識を深めていきたいと考えるようになりました。具体的には、フォワーディング業務を学びたいと考えました。2000年日立物流へ入社。同社では、中国発日本向けの航空貨物一貫輸送サービスを主力商品として販売しておりました。私は、通関士としてではなく、通関実務を知る人間として、カスタマーサービスに携わりながら、フォワーディング業務を学んでいきました。フォワーディング業務とは、輸入で言えば、外国の現地工場から商品が現地の空港へ発送され、そこから航空機で日本の空港へ運ばれてきます。その工場出しから、日本の空港到着迄の部分の手配になります。日本の空港へ到着して輸入通関以後の部分については、既に習熟しており、川上の作業が習熟できれば、輸入一貫輸送サービスの提案ができるようになると考えました。航空運賃のマーケットプライスや、同業他社の動き等、一貫輸送を包括的に考えるようになり、様々な分野にアンテナを張るようになりました。後のキャリアにおいて、営業に携わる事がありますが、1995年の社会人デビューから2003年日立物流を退社する迄の8年間における実務経験が大きな支えとなった事は間違いないと思っております。また関空での仕事は、1997年から2003年までの6年間で幕を閉じる事になります。

■商社系物流会社との出会い【仕事の幅と共に人脈も広がる】

2003年丸紅紙パルプ物流入社。これまで物流会社の現場で実務経験を積み重ねて参りましたが、国際物流に関しては、自社の機能を持たないいわゆるノンアセット型の会社は初めての経験でした。簡単に申しますと、顧客へ販売する国際物流サービスは、協力会社があって初めて成り立つものという部分が大きな違いでした。紙の商流や貨物としての特性についても最初からの勉強になります。また、これまでは輸入後、顧客の指定する場所へ直送する流れの手配でしたが、紙の場合は、在庫販売があり、輸入後、倉入れ、二次配送の流れになります。倉庫業務と配送業務についての国内物流についても一からのスタートとなりました。新たに学ぶことは、仕事に幅ができると考え、物流という世界において、広く浅くを実践して参りました。必然的に、国際物流、国内物流共に各物流会社とのコネクションも広がっていきました。ここでの10年間における人脈の幅は、今の私を支える大きな源となっていると言えます。ところで私には、同社に在籍している中で実現したかった事がありました。それは、一番大きな収益源である丸紅グループの紙の物流による収益を超える柱の構築でした。私は、自分の経験値を活用して、丸紅グループの紙以外の商材を扱っている部署へも積極的に営業を行いました。課内における体制も紙と紙以外の2系統に分けて構築しました。柱は、1本では心もとないと考えていた事、そして自分だからこそできる事だと思って進めて参りました。当時、2日に1回は、丸紅本社ビルへ足を運んでいました。その甲斐があって、管理職になった当時の2007年に8:2の収益比率に偏重があったのが、3年後の2010年には、5.5:4.5迄に昇華させることができ、一極集中の打開を実現しました。個別の案件としては、某自動車メーカーのエンジンライン設備の輸出作業を受注できたのが一番の思い出になります。紙パルプ物流が、エンジンラインの輸出作業を受注ですから、個人的には、猪木さんの『私のロマン』を体現できたと思えた瞬間でした。

■最後の転社そしてこれから【挑戦のネバーエンディングストーリー】

2014年サンキュウシッピング入社。この当時は、再生可能エネルギーとりわけ太陽光発電の需要が急速に高まっていた時期でした。山九グループにおいても新規で太陽光パネルの輸入、在庫そして配送の一貫作業の全国案件を受注しておりました。私自身、山九グループとのコネクションは、前職時代からあり、先方の営業マンから、太陽光案件のオペレーションマネージャーとして手伝ってもらえないかという引合いを頂戴しての入社でした。女性スタッフ2名と私の3名で新しいセクションを作っての船出でした。仕事は極力まわりを巻き込むのが私流でした。思い出としては、会社の固定電話、会社から宛がわれていた携帯電話、それに私個人の携帯電話と3本を駆使して物流の手配をしておりましたので、3本が同時に鳴ることも茶飯事でした。女性スタッフに私の携帯へ出てもらったり、隣のセクションの方に電話に出てもらったり、また車両の確保を依頼したりと、毎日、大きな声を出して、今の状況を周りにアピールして巻きみながら仕事をしておりました。周りに助けて欲しい時こそ、大きな声で仕事をする・・・これは、関空で仕事をしていた時に学んだことでした。まさに歌って踊れる物流マンの真骨頂ではなかったかと思います。そんな私も2021年遂に物流サービス会社の株式会社プロミネンスを設立しました。これまでの経験値そして人脈を元に船出しました。また2022年に行政書士事務所プロミネンスを開業しました。1994年通関士試験を目指す際には、行政書士試験にも合格してダブルライセンスで、貿易行政事務所を開設しようかと考えた時期もありましたが、28年後に形は違えども行政書士事務所を開業することができました。許認可業務をメインに進めて参りますが、古くは、通関士として輸入許可を得る為に税関職員との折衝をして参りました。また様々な書類を作成し提出をして参りました。これまでの全てを傾注して、『許認可+物流の行政書士』として新たな気持ちでこれからも挑戦し続けて参ります。

■プロミネンスの理念

常識にとらわれず、常にチャレンジし続けること。

準備に妥協はいらない。

目配り、気配り、心配りを忘れない。

人脈はかけがえのない財産である

行政書士事務所プロミネンス/代表行政書士 安部雄紀浩

事務所概要

事務所名 行政書士事務所プロミネンス
代表 安部 雄紀浩(あべ ゆきひろ)
登録番号:22100571
従業員数 1名
所在地 千葉県八千代市大和田新田805番地30
TEL 047-427-9976
FAX 047-413-0794
事業内容 建設業許可申請全般及び、その他許認可申請(酒類販売業免許申請・宅建業許可申請・産廃業許可申請・古物商許可申請等)

アクセス

  • 千葉県八千代市大和田新田805番地30
  • 電車でお越しの場合 : 最寄駅 東葉高速線 八千代緑が丘駅
  • 営業時間:平日9:00~18:00 / 土日祝定休